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朝の調教風景
当たり前の様にジョッキー達が忙しく乗っている中、
ポツンとベンチに座って暗い表情をしているジョッキーが居た
それを見たとある調教師が声をかけた
「何してるんや?」
ジョッキーは答えた
「いやぁ…、恥ずかしながら、乗り馬が無くて…」
調教師は言った
「ならお前、うちのあの馬乗ってみるか?」
それが、ネーハイシーザー塩村克己のコンビ誕生の瞬間であった
これマジ?
我が生涯に一片の悔いなし【グッバイマイライフ】
【グッバイマイライフ】が勝利したレースは生涯2勝だけである。
それも重賞ではない、普通のレースでの2勝である。
ただ、その2勝がどんな重賞よりも大きな意味をもった勝利だったのだ。
グッバイマイライフ|競走馬データ- netkeiba.com
後に【グッバイマイライフ】の馬主になる男は医者であり、自分の病院も持ち、順調な生活を送っていた。
ところがある日、自分の体に異常を感じ検査したところガンであることが判明した。
しかも末期で、余命半年と宣告されたのだ。
その男は、それがわかった時、仕事をやめ、
馬が走るのを見て暮したいという長年の夢を叶えるべく、馬主になる決意をした。
その時、初めて買った馬が【グッバイマイライフ】だったのだ。
【グッバイマイライフ】さらば我が人生。
馬主になった男は、愛馬のデビューが楽しみで「1勝するのを見届けるまでは死ねない」というのが口癖だったそうだ。
2002年8月に札幌でデビューした【グッバイマイライフ】だが、ここでは勝てず、
4戦目のレースで念願の初勝利をあげることが出来た。
その時の馬主は喜びは、計り知れないものだっただろう。
余命半年と宣告されていたにもかかわらず、その後2年間に渡り、
愛馬の走りを見守った馬主だが、2004年2月に力尽き、天に召された。
その翌日、【グッバイマイライフ】は追悼するかのように2勝目を挙げたのだった
泣いた
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天皇賞でのデムーロ
下馬してからの敬礼シーン
「来年、8歳も走らせて下さい。絶対に来年も走るし8歳でG1取らせます。」
と音無に言った。それを聞いた音無は馬主の近藤さんにそれを伝えるも引退の方針は変えないと言われた。それを受けた横山は、音無と共に近藤さんに会いに行き
「府中でウオッカに勝てるのはカンパニーだけです」
と伝え、秋天を勝利する。その日横山は近藤にマイルCSでの有終の美を約束した。その日は3人で朝方まで飲み続けた。嘘だけど
なんだよ嘘かよ・・・
かわいい
千代田牧場の先代夫人・政子さんの名をとってつけられた牝馬チヨダマサコ。
二十歳そこそこで亡くしたお嬢さんを偲んで
政子さんが命名したチヨダマサコの娘のタレンティドガールがエリ女杯を勝ったのは、
お嬢さんの命日だった。
息子夫婦だけで働いていた(食肉用ばん馬の)神田牧場に新冠町から
一人に主婦が訪ねて来たのだ。
「桃姫に合わせていただけませんか?」
いきなりそう頼まれて、神田弘氏は、怪訝に思った。なぜだろう。
しかし訪問者のいるすぐそばの馬房に桃姫がいた。
「ニンジンあげていいですか?」
(略)
「どうぞ、やっていいですよ」
(略)
日ごろは草や飼葉を主食にしている。だからニンジンをやる場合は、
そのままの大きさでは与えない。
だが堀江と名乗った訪問者は、
そのまま与えた。
初めて見るニンジンの匂いは嗅いだものの、 桃姫は食べなかった。
しかし、その作業を断念した堀江さんから、神田牧場の人びとが知らなかったことが語られたのである。
桃姫が乳母を務めた仔馬が四歳まで成長し「スペシャルウィーク」という名で、
日本ダービーにも出走できそうな有力馬になっていると……。
これも中々いいな。本当の話しっぽい。
実話です
ホクトベガの事はずっと「おねーちゃん」と呼んでた。
人懐っこい馬でね。舐めたり噛み付いたり、
人間に寄り掛かったり。賢い馬だった。
甘え方が 普通の馬とは違うんだ。
何ていうか 頭を人間にもたれさせてみたりね。
ドバイワールドCではゲートについて行ったから
落馬したのは分からなかった。
「うちの馬が帰ってこないし、おかしいな」
と、思っていたんだけど・・・・・・。
ホクトベガ担当厩務員 藤井浩氏の言葉
木村幸治「駿馬、走りやまず」 祥伝社ノン・ポシェットより抜粋
ヴィクトワールピサがドバイを制したのはホクトベガの誕生日だった…
種牡馬ベイラーン
本邦導入後、全弟ブラッシンググルームの競走馬の活躍により
同じ年導入されたノーザンテーストと人気を二分するも夭折。
最も活躍した産駒はネオキーストン。
その名の示す通り、名馬キーストンの近親。
史上屈指の良血馬は失われた一族を蘇らせるためだけの仕事を成し遂げて死んだ。
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イスタブラク
サドラーズウエルズ産駒の期待馬で、最初はヨーロッパの名門ジョン・ゴスデン厩舎から平地デビューした。
しかし、ほとんど目が出なかった為、ゴスデンは、イスタブラクが5歳の時に売ることを決意する。
そのとき、その年の秋に厩舎を構える予定で、馬を集めていたゴスデン厩舎の調教助手ダーカンは、ゴスデンにこの馬は障害馬として成功すると言い、自分の厩舎で引き取ることにした。
ところがダーカンは白血病に襲われ、厩舎を持てなくなってしまう。
そこで、ダーカンは友人のエイダン・オブライエンに「この馬はチャンピオンハードルを勝つ馬だから頼む」
と言ってイスタブルクを託しす事にした。
ダーカンの病気は予想異常に進行していたけど、イスタブルクがチャンピオンハードルを勝つまではという執念から、危機を何度も乗り越えて生き伸びる。
イスタブラクはというと、障害デビューをしてどんどん勝っていき、ついに、チャンピオンハードルも狙える
という所まで出世する。
しかし、ダーカンはイスタブルクがチャンピオンハードルに出走する4日前についに力尽きてしまう。
そんな中行われた、チャンピオンハードルでイスタブラクは見事優勝を飾る。
競馬場に集まっていた人はそれまでのいきさつを知っていて、
観客は涙しながらジョン・ダーカンの頭文字を取ったJDコールが沸き起こった。
そしてイスタブルクの口取りをし、
調教師として表彰を受けたのは、
残されたダーカンの奥さんだった。
前走を振り返って加藤師は、
「普通に乗っていれば3馬身は突き抜けていたレース。あの乗り方ではお客さんは
納得しないだろうし、今後も乗せ続ければボクやオーナーの見識も疑われる」
と敗因を騎乗ミスに求め、次走での乗り替わりを示唆した。
「数多くのサラブレッドを生産したが、名馬と呼べるような馬は生産していない」と常々
口にしている吉田照哉オーナーをして、「(一生に一度ではなく)十生に1度、会えるか
会えないかの逸材」と言わしめた大器。
「現段階でユタカ(武豊騎手)に打診している。他に強いお手馬(ディープインパクト)もいるようだけど、
将来性を考えれば絶対にウチの馬を選んでくれると思う。」
加藤師の自信に揺るぎはない。
テイエムオペラオーが5歳の宝塚を勝ったら海外遠征するはずだった
という話は有名だが
しかし結果は幾度もオペの2着に甘んじていたメイショウドトウに敗れ
海外遠征は無かったことに
実はオーナーサイドは負けるはずないと馬や人の航空券を手配していたのだが
その便が航空機トラブルにて墜落していたのである
長年のライバルであったメイショウドトウがテイエムオペラオーの
命を救ったとも言える、真っ赤な嘘である
お前凄いww
うるっときたけど嘘かい!
ひとりのオッサンが阪神競馬場にやってきた
その地方馬の名前はルイボスゴールド
その年の地方のダービーGPを制した笠松の馬だった
そのルイボスゴールドの大ファンだったオッサンは
初めて中央にルイボスゴールドが殴り込みを掛けると聞いて
いてもたってもいられなくなりわざわざ東京からやってきた
いかしその日のメインレースは阪神大賞典
1番人気はあのマヤノトップガンで2番人気はナリタブライアン
さすがにこの2頭には勝てないだろう
しかしなんとか3着には来てくれと願いをこめて複勝を50万円買った
レースはマヤノトップガンとナリタブライアンの歴史的な叩き合いで
幕を閉じナリタブライアンが頭差で勝った
しかし3着には猛然と追い込んだルイボスゴールドが入った
オッサンは男泣きに泣いた
レースの配当は馬連210円に対しルイボスゴールドの複勝は550円
オッサンは275万の払い戻しを手にすることになったのである
ところがあまりの嬉しさにそのオッサンは換金せずに競馬場を飛び出した
その行動が後に新聞に載るような事件になるとも知らずに
続く
大学のゼミのレポートに追われるこの大学生はローソンのコピー機で
レポートをコピーするためにローソンにやってきたのだ
ローソンに着いてコピー機にレポートをセットしょうとすると1枚の紙切れがあるのに気づいた
よく見るとそれは馬券で7番50万と書いてある
わざわざコピーを取るくらいだこの馬券は的中しているに違いない
若者はそう考えると金額の大きさにドキドキした。もうコピーどころではない
若者はその馬券をそっとポケットに入れるとローソンを飛び出した。
ローソンを出てから若者は考えた。競馬のことは何も知らない、しかしこれを窓口に持って行くと
換金できるという知識くらいはある。この馬券がいくらになるのかは知らないが
少なくとも50万以上にはなるはずである。
若者は競馬場から吐き出される人々を見てこれだけの人間がいて馬券を買っていて
オレひとりが換金したところで怪しまれるはずがないと
意を決した若者は競馬場に向かった。
続く
オッサンは焦っていた。
せっかく的中した馬券を記念にとローソンでコピーしたまでは良かったが
うっかりコピー機の中に馬券を忘れてしまった。
気がついてあわててローソンに戻ったが遅かった。馬券は消えていたのだ
店員に尋ねたが知らないと言うし、途方に暮れたオッサンは近くの交番に駆け込む
警官に事情を説明すると警官はすぐに阪神競馬場に電話をしてくれた。
阪神競馬場からの回答はその馬券はまだ払い戻しされておらず、もし誰かが換金しに来ても
その場で取り押さえられるということだった。
警官は阪神競馬場に常駐している警察官に連絡を取り、オッサンにそこに行くように言った。
阪神競馬場の警察の待機事務所に行くと警官が連絡があるまで待つように言った。
しばらくすると事務所に出動要請のコールが鳴った。
警官二人が駆け出し、オッサンもそれに付いて行った。
遅れながら指定された場所に行くと警官二人に両脇を抱えられた若者が顔面真っ青になって立っていた。
競馬場の関係者らしき人がオッサンにコピーした馬券を見せてくれと言い
手に持った馬券とそれと照らし合わせて「間違いありません」と警官に告げた。
警官は何時何分窃盗罪で容疑者を確保と告げると若者に手錠をかけて引っ張って行った。
もうひとりの警官が取り調べと調書の作成があるので一緒に来てくださいとオッサンに言った。
続く
土曜日の昼下がりの阪神競馬場のフードコートは閑散としていた。
僕は目の前でニコニコと笑っている老人と中年男性に奢ってもらったビールを
チビチビ飲みながら「で、なんでその犯人と被害者が20年後に競馬場で二人でビールを飲んでいるんですか?」
と訝しげに尋ねた。
あれから地方紙とは言え新聞の片隅に事件が報道され、若者は大学を追い出された
親からは勘当同然になり仕送りも途絶えアルバイトで食いつなぐ日々が続いた
そんな時にあの時のオッサンが目の前に現れた。
あの時キミが盗んだとはいえ、馬券を忘れた私にも落ち度はある。前途在る若者の将来を閉ざしてしまった。
そのオッサンは若者のことが気になり、元々小さな会社を経営していて関西にも取引先があり
出張と称しては関西に出向き若者をご飯に誘ったり飲みに連れて行ったりした。
そして仕事のノウハウを教え、他の取引先を紹介しながらいつしか若者はそのオッサンの
関西支店みたいな役割をするようになっていた。
若者は身を粉にして懸命に働きオッサンの信頼を得るようになっていき、
オッサンが引退する頃に独立を勧められ自分の会社を立ち上げた。
完全に経営から退きヒマを持て余すようになった元オッサンのご老人は
年に数回関西にやってきては元若者を誘い因縁の阪神競馬場でビールを飲んでいるわけだ
そしてフードコートで競馬新聞と睨めっこをしていた僕に声を掛けてビールを奢ってくれ昔話しを肴に飲んでいた。
「縁って不思議なものですね。」競馬場からの歓声と怒号が僕のそのつぶやきをかき消した。
終わり
面白かった
落語っぽくもある
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タマモクロスが天皇賞秋を勝った二週間後に行われた
エリザベス女王杯(GⅠ)を勝ったミヤマポピー。
ミヤマポピーという馬はタマモクロスの半妹(父はカブラヤオー)にあたり、
あのグリーンシャトーがタマモクロスを産んだ次の年に産んだ牝馬であります。
グリーンシャトーが産んだ仔が僅か二週間の間に兄妹でGⅠ制覇の快挙を
成し遂げたのです。
牧場を手離し東京で人知れず建設作業員として働いていた錦野氏は、
いつもタマモクロスやミヤマポピーの事を気に掛けていたと言われています。
しかし一切 公の場所に姿を現すことはなくタマモクロスの優勝したレースの
表彰式でも生産者の席はいつも空席であったといいます。
しかし一度だけミヤマポピーのエリザベス女王杯の行われた京都競馬場に
密かに応援に訪れた彼の姿があったと言います。
その後雑誌「優駿」の取材に応じた彼の言葉が最初で最後の彼の心の内を
表した言葉として記録されています。
「家族が私のわがままを許してくれたのがせめてもの救いです。
妻も母も三人の子供も私を許してくれました。
タマモクロスとミヤマポピーのおかげで家族の心がひとつになりました」
このエリザベスで家族が再会したらしい。
悔しいと同時にライバル、オペラオーの強さに感嘆して父オペラハウスの仔馬を購入
それが後のメイショウサムソン
勝利したフェブラリーSでは晴れの舞台での観戦を望みながら叶わなかった夫の想いを引き継ぎ
馬主となった夫人が夫の遺影と共に観戦していた
残り100m、愛馬が先頭に立ったとき夫人は亡き夫の遺影を高らかに掲げ叫んだ
「あなた、あなたの馬が先頭を走っているわよ!」
結果ビワとブライアンは放牧地を自分だけで駆けまわることが多かったそうだ
同年代の仔馬たちよりしっかりした身体能力と独立心が養われた
武豊のライバルになりえたといわれる天才ジョッキー岡潤一郎
同期のライバルである彼らはある約束を交わしていた
「いつか俺たちの時代を作ろう」
89年に岸はサンドピアリスで初重賞制覇と初G1制覇を達成、続くように岡も91年にリンデンリリーでG1を初制覇し互いに切磋琢磨していた
そんな中、92年に岸はある馬と出会う
後に菊花賞、天皇賞、宝塚記念を制する名馬ビワハヤヒデ
岸が手綱を取ってデビューから3連勝、朝日杯では2着となるも岸は翌年のクラシックへ確かな手ごたえを感じていた
明けて93年1月、岡はレース中の落馬により意識不明の重体に陥ることとなる
ライバルの苦境に動揺しながらも岸は愛馬ビワハヤヒデと共同通信杯へ挑んだがまたも2着
その2日後岸に一報が入る
岡潤一郎の死
同期であり、ライバルであり、同時に親友であった男の死を知った岸に更なる追い討ちをかけるように同日、ビワハヤヒデからの降板を告げられた
約束を交わした親友の死と牡馬クラシックを予感させた愛馬からの降板を同時に告げられた岸のショックは計り知れない
その後の岸の落ち込み様は栗東トレセン内でも話題になるほどであった
そんな彼の姿を見てビワハヤヒデ陣営に対して怒りを燃やしたのが武豊である
「降板は仕方ない、しかし親友が死んだその日に告げるのは配慮がなさすぎる」
迎えたクラシック初戦の皐月賞でナリタタイシンに騎乗した武はある思いを胸に秘めていた
「ビワハヤヒデには勝たせない」
後輩の無念を晴らさんと渾身の騎乗で後方から追い込み、ビワハヤヒデをクビ差差し切って皐月賞を制覇した
レース後に武は岸に語った
「ジュンペーとの約束は終わってない、がんばれ」
岸は武の言葉に涙を浮かべ大きくうなづいたがこの話は嘘である
芸人として上手くいかず、もうこれでダメならやめてしまおうと思って電化製品とか売り払ってグラスの単勝一点に賭けた竹山
それは1998年有馬記念、グラスワンダー復活のレースだった
あまたいる名馬の中でも、「ちゃん」付けされる馬はそうはいないであろう。
ハイセイコー。
引退が近づいてる頃のあるレースのパドックで、30代くらいの女性からひときわ高く響く声がかかった。
「ハイセイコーちゃん、がんばってーーっ!!」
のちに主戦の増沢末夫騎手はこう語った。
「俺も沢山の馬に乗って来たけど、ちゃんを付けられて声援を浴びた馬は、後にも先にも他に思い付かないね…」
うろ覚えでスミマセン
続きます
>>85続き
「ちゃん」が付けられた馬ハイセイコー
ハイセイコーはアイドルだったが
「さん付け」された馬も存在する。こちらはより、敬意と尊敬をこめられているように感じる。
伊藤牧場の朝、従業員たちが一頭の馬に次々にあいさつする。
「テューダーさん、おはよう」
「テューダーさん、今日も1日よろしくお願いします」
伊藤牧場の導入種牡馬テューダーペリオッド
BMSとしてもダービー馬オペックホース、エリザベス女王杯馬ロンググレイス、そしてバンブトンコートなどを輩出した名種牡馬である。
伊藤牧場が経営の危機に直面しそうだった時に、テューダーペリオッドは頑張った。
ライトワールド、ウチュウオー、ハマノパレード、タケクマヒカル、と順々に活躍馬を出して、
その都度、牧場の窮地を救っていったのだ。テューダーペリオッドは伊藤牧場にとっては日本一の大功労馬である。
ダイユウサク列伝より
1991年、この年の有馬記念(Gl)は、皐月賞、ダービーを無敗で制してクラシック戦線を主導した
トウカイテイオーが骨折で出走できないため、古馬最強と謳われる
メジロマックイーンの独壇場となるだろうというのがもっぱらの予想だった。
この年はトウカイテイオーに限らず故障で有馬記念を回避する有力馬が相次いだため、
出走馬の層が例年よりも薄かった。
もっとも、いくら層が薄いとはいっても、有馬記念は有馬記念である。
重賞勝ちが京都金杯だけのダイユウサクが、ファン投票で選ばれるはずはない。
ダイユウサクが有馬記念に出走するためには、推薦委員会(当時)から推薦をもらう必要がある。
登録されていたために審議の対象にはなったダイユウサクだったが、
推薦委員会では、彼の出走の可否について激論がかわされたという。反対説の主たる論拠は、
「この程度の馬を出しては、伝統ある有馬記念の格が落ちるのではないか」
という一点に尽きていた。この年はもともと登録馬が少ないため、
推薦委員会の動向次第ではフルゲートにならない可能性もあった。
だが、反対派は、ヘンな馬を推薦で出走させるくらいなら、
フルゲートにならなくても格式にふさわしい馬だけで力勝負をさせた方がいいというのである。
それでもダイユウサクは、有馬記念に何とか推薦されることになった。
中央競馬の1年を締めくくるグランプリがフルゲートにならないというのは、いくらなんでも情けない。
それに、ダイユウサクが本当の駄馬ならともかく、この年の初頭には京都金杯を勝ち、
さらに前走でもトップハンデのOP特別を勝っている。
そのふたつの実績が、彼の推薦の大きな原動力となり、道は拓かれた。
グランプリを控えての彼の調整は、内藤師の予想すらはるかに超える素晴らしいものだった。
もう一度同じ状態に仕上げろといわれてもできない、それほどの究極の仕上げが、この時のダイユウサクだった。
内藤師は、有馬記念を数日後に控えたある夜、夢を見た。夢の中で5枠に入ったダイユウサクは、
メジロマックイーン以下のライバルを斥けて、先頭でゴールを駆け抜けていったのである。
内藤師は、調教師は買ってはいけないはずの5枠からの馬券を、大量に買っていた。
そこで内藤師が換金に行ったところ「現金にしますか、小切手にしますか」
と尋ねられたため、彼は、「億という金はまだ見たことがないので、現金にして下さい」
と答え、ダイユウサクと一緒に札束を馬運車に積んで栗東に帰っていった・・・というのが、その夢の内容だった。
この段階ではまだ笑い話半分で、知り合いに「5枠に入ったらうちの馬の単勝を買ってみてくれ」
などと冗談まじりに笑っていた内藤師だったが、抽選でダイユウサクの枠順が本当に「5枠」の8番になると、
すっかりその気になってしまった。内藤師のイレ込み具合がどのくらいのものだったかというと、有馬記念当日の乗り役として、
思わず岡部幸雄騎手に声をかけるほどだった。
引用元:嘘でも本当でもいいから競馬に関する感動のネタ書いてくれ【http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/keiba/1477578196/】
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