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オグリの宝塚はバッシングされて可哀想だったよ
南井の方が数々の糞騎乗してたのに
若いから色々言われすぎた
その後低迷してしまい、リンデンでやっとスランプ脱出、これからって矢先の事故だった
アメリカ、イギリス、の遠征から帰った18日の函館競馬場で1日に4勝を挙げた武豊騎手ですが、競馬が終わってから、千田調教師らと一緒に元JRA騎手、岡潤一郎さんの御墓参りに行ったようです。
すごい才能を持っていた後輩で、
しかも気持ちのいいヤツでしたから、夏の北海道に来たら彼のところに寄らずにはいられません。
「また来年」と声をかけて、帰ってきました。(武豊日記)
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若き武豊・松永幹夫と共に将来を嘱望された逸材、ジュンペーとファンから親しまれた騎手がいた。
彼の名を”岡潤一郎”と言う。
’88年にデビューした彼は岸滋彦・千田輝彦などと同期であり、初年度から岸滋彦JKと壮烈な新人賞争いを演じ、見事に新人賞に輝く。
その後彼は脚光を浴び、その安定した騎乗と甘いマスクで人気を集め関西リーディングの常連に成長していく。
初重賞勝利は以外にもデビューから3年経った春のNHK杯でユートジョージに騎乗、府中の直線を豪快に差し切っての勝利であった。
そんな順風満帆な彼も大きな挫折を味わうこととなる。
それは’90年に行われた宝塚記念で、
圧倒的1番人気のオグリキャップに初騎乗、勝って当たり前と言う凄まじいプレッシャーの中、4コーナーまでは抜群の手応えで上っていくオグリキャップであったが直線は前を行くオサイチジョージに突き放されて失速、
ヤエノムテキの急襲を何とか退けての2着確保であったが、マスコミやファンの風当たりは厳しく、レース後も罵声を浴びせられる日々が続いた。
翌年、その屈辱を跳ね除けて天才はエリザベス女王杯でリンデンリリーを駆り、圧勝して初のG1タイトル制覇を果たす。
初重賞制覇がユートジョージ、そして初G1がリンデンリリーと共にミルジョージ産駒であったのは何かの縁か。
しかしながら天才に待ち受けていた運命は皮肉なもので、不幸は突然彼を襲う。
1月30日、京都競馬第7Rでオギジーニアスに騎乗、4コーナー手前で脚色が鈍り失速したオギジーニアスは最後の直線で左後脚に故障を発生、
投げ出された彼の後を若駒たちが駆け抜け、不幸にもその中の1頭が避けきれずに彼の頭部と接触してしまう・・・
筆者はこの風景を京都競馬場で目撃していたのだが、
当時は今のようにパトロールビデオが流れる時代ではなく、4コーナー付近で蹲って動かないジュンペーをスタンドで見守るしか出来なかった。
彼の怪我は予想以上に重く、
17日の壮絶な闘病生活の後、彼は天国に旅立つこととなる・・・
享年24歳、天才の早すぎる死であった。
北海道様似町にある彼の生家には、
冬枯れの 淀のターフに 散りし夢 永遠に忘れじ 君の面影
と彫られた石碑があるという。
無事であれば武豊と共に関西、
日本の競馬サークルを背負って立っていたに違いない逸材であり、
その短すぎる生涯は競馬サークルの大きな至宝を失った悲しい出来事であった。
デビューから僅か5年余りであったが、彼が緑のターフを駆け抜け、躍動していたことを決して忘れることはない。
岡 潤一郎
‘68.12.7 北海道生まれ
初騎乗 ’88.3.5 ダイタクゲニー 7着
初勝利 ’88.3.20 トーヨーシンゲキ
通算成績 2177戦225勝
主な騎乗馬 リンデンリリー(エリザベス女王杯)
ユートジョージ(NHK杯)
ノーザンドライバー(ペガサスS) など
何か不運が重なる騎手だったね
メットが軟弱だったから
ヘルメットか、本当に昔の日本競馬て何もかもが遅れていたんだな
親友と言った方がシックリとくる
確かに
伊集院静に会わせたり人脈を広げさせようとしてたからな
武豊からいまでも毎年お花届くらしい
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生きてた時の過去映像だけど
岡潤の母ちゃんも出席してて泣いてたのが映ってたな
それだけ影響力の強かった騎手
その全てを背負って涙一つ見せずに活躍していった騎手が武豊
豊と共に、二大看板になっていた筈
初めて買った馬券
エリザベスは泣けた
成績だけでなく、人間としても好かれてた
受け答えもユーモアでシッカリとしていたしね
去年のエリザベスの時かにそのエピソードギャロップかなんかで読んだ記憶がある
大切にしていると書いていたのでまだ使っているか保管していると思われる
オグリの時は、結果よりも騎乗が決まったことへの違和感があったような。
ただ勝ったオサイチの丸山は何処かへ消え、ヤエノムテキは西浦さんだもの。昔話になった。
騎乗機会連勝の新記録とか、そういう実績残してたからオグリも回ってきたんだろう
これな
新人賞も取ってその後たった数年で日本記録作ったり3年目でG1勝ったり普通に活躍してた
過大評価とか言ってる奴らこそ当時を知らないニワカなんだなとしか思えないわな
まぁ俺もリアルタイムで見てないから文献から記録と映像を辿っただけどね
普通に凄い有望な若手騎手だったんだなと思う
あの田原が
小柄だったから
減量の心配がなく
軽い斤量の馬にもバンバン乗れたし
無事だったら武豊に次ぐ勝ち星をあげられていたと思う
アメリカでも活躍できたかもしれない
無限の可能性を持った騎手だった
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